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unlikelyな日常

言語の多様性にこそ、面白さが隠れている。

以前、「言葉に関する仕事をしているから、他人の言葉遣いが気にならないの?」という質問を受けた。

その質問に対する答えは、もちろん「いいえ」であるが、それ以上に、その質問自体に気持ち悪さと憎悪に近い危機感を感じた。

 

その理由が長らくわからなかったのだが、少しずつ、おぼろげながらわかってきた気がするから、ここに書き留めておきたい。

 

個人的には、言葉に自由になれるとは思っていないし、他人に対してもそれを求めない。むしろ、言語の多様性にこそ、面白さが隠れていると思っているから。

 

先日読んだ、蓮實重彦さんの随想にハッとさせられる文章があった。

 

言うまでもなく、人類は、言語を所有しつくすことが出来ない。「言語」はあくまで、他者としてその全貌を我々の視界から遠ざけ、言語活動の根拠を人類に譲渡することなどありはしないからである。「言語」が、人類にとって絶対的な不自由であることをやめる瞬間など、来るはずもなかろう。我々に出来ることは、せいぜい言語による表象能力のもろもろの技術を社会の教育的な刺激に触れつつ、相対的に高めたり、低めたりすることに尽きている。その刺激が豊かな多様性を見失えば、社会の言語による表象能力も必然的に寂しいものになる。

 

 

随想

随想

 

 

ここでいう、社会の教育学的な刺激とは、矛盾ー異なるものの豊かで多様な共存ーを許容する風土のことだ。

 

自分とは使用する言語が異なる人を受け入れ、それを許す文化なくして、社会の言語による表象能力は衰退する。

 

他人と自分が違う環境で生きて、異なる表象能力を持つことに、興味と面白さを持ち続けたいと思っている。

【読書ログ】読売新聞朝刊一面コラム - 編集手帳 - 第三十一集

 書く力を読んでファンになった竹内政明さんが、読売新聞で連載する「編集手帳」をまとめた一冊

 

6月から12月まで、詩・短歌・俳句などを用いてその日の出来事にコメントしている。

知識の幅とブリッジのかけ方は、読んでいて本当に参考になる。

 

気に入った文章は、上に書き写して、その感覚を自分のものにしようとしている。

 

その中でも、特に秀逸だと思う日をピックアップして、紹介したいと思う。

 

7月15日から

 

ーー以下抜粋

 

「退任」のお心

 

モミジの上に載せれば、透き通った露も赤く染まって見える。〈紅葉に置けば紅の露〉という。多くの人がその言葉に思い当たるのは、誰かの悲しみに触れたときだろう。

 

津波や豪雨の被災者に会えば、濁流の色に心は染まる。むごいテロ事件の報に接すれば、炎の色に心は染まる。人の痛みが自分の痛みとなり、しばらく癒えることはない。優しい心であればあるほど、そうだろう。悲しみとは伝染するものである。

 

人の悲しみに接し、共に悲しみ、慰めることを公務にされてきた方である。82歳になられて、お疲れでないはずがない。

 

天皇陛下が生前に「退任」する意向を持たれているという。公務を減らしてまで天皇位にとどまるつもりはない、と。公務を何よりも重んずる強い使命感に発したお考えだろう。政府は、皇室典範の改定なども視野に、必要な準備を進めていると聞く。

皇后陛下に。初夏の思いを詠まれたお歌がある。

〈我ら若く子らの幼く浜名湖の水辺に蛍追ひし思ほゆ〉

濁流や炎の色ではなく、蛍や若葉やモミジの色に、お二人でゆっくり染まる時間を差し上げたいと、心から思う。

 

ーーーーーーー

 

津波や豪雨の被災者に会えば、濁流の色に心は染まる。むごいテロ事件の報に接すれば、炎の色に心は染まる。

 

この一文は自分が書けるようになるとは想像できないほどに美しい。

 

そして、

人の悲しみに接し、共に悲しみ、慰めることを公務にされてきた方である。82歳になられて、お疲れでないはずがない。

天皇陛下が生前に「退任」する意向を持たれているという。

最後まで誰の話なのかは書かず、次の文章の主語で”天皇陛下が”とするところに技術の高さを感じる。

 

このような文章を毎日書き続けるために、相当な知識とネタを日々蓄積し続けているのだろう。

 

見習わなければ。

 

【読書ログ】書く力 私たちはこうして文章を磨いた

渋谷の啓文堂書店で見つけた一冊。

 

この手の本は、ついつい買ってしまう。

 

書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)

書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)

 

 

テレビでおなじみの池上彰と読売新聞の編集手帳を担当している竹内政明が、自分の考えている文章の書き方を対談方式で語っていく。

丸谷才一谷崎潤一郎が書くような、おかたい文章読本ではない。

 

竹内政明さんは、この本を読んで、初めて知った。

詩・短歌・俳句などを用いてその日おこった出来事を綴る「編集手帳」を14年執筆している。日本記者クラブを受賞されているとのこと。

 

編集手帳を初めて読んだ。竹内さんの書く文章が好みだ。

 

「一件関係ない書き出し」

次に、「タイムリーな出来事への展開」

最後に「書き出しと結びのブリッジ」

 

短く無駄のない文章の中に、うねるような展開があり、そう来たかと思わせる爽快感が気持ちいい。だから、また読みたくなる。

 

そんな竹内さんが本の中で語っているいい文章を書く方法を少しだけ紹介させてほしい。

・文章は、引き出しの量に左右される

・うまく書けそうななテーマを選んで書く。別の言い方をすると、「自分のわかっていることを書く」

・結論よりもまずは「書き出しを」

・背伸びをしないでありのままでかく。

 

これからは、文章を書くテクニックを載せていく。

 

・感情は抑える。激しい感情を書きこんでも、読者はしらける。

・ツッコミを先回りする。(例えば、説教臭い物言いになるのを抑えきれないでいる。とか)

・怒鳴られた、怒られた、励まされたという話は一切省略されている。ー中略ー読者がそれぞれの体験と結びつけて想像してくれたほうが下手に書き込むよりも、ずっと鮮明なイメージを読者の頭のなかに残せる。

 

・版画でも、全部掘ってしまうと印刷したあと、何も浮き上がってこない。余計な場所は削らないようにぐっと我慢する。掘るべきところだけを、表現を凝らして掘る。これは、文章も同じ。

 

線を引いた箇所を書き出してみて思う。大事なことは繰り返し語られ続ける。

 

最後に、「対談を終えて」というあとがきがある。

これもまた、秀逸。

 

第三十二集も購入しよう。

野球が生み出す一体感

平均視聴率は20%を超えているらしい。

視聴率が取れないと、テレビ業界がえんえん言っている中、大健闘を見せているWBC

 

プロ野球は視聴率が取れないと地上波から姿を消す中、WBCがここまで盛り上がりを見せる理由を考えてみたいと思います。

 

その理由は、「国対国」の戦いにあると思います。

 

ぼくらが侍ジャパンを応援するのは、「日本代表」だから。もっと詳しく言うと、日本という「国民」を代表して戦うから、だと思う。

「国民」代表だから、応援してしまいたくなる。

 

では、この「国民」というものをもう一度考えて見ましょう。

 

野茂、松井、イチロー

日本を飛び出し、世界最高峰の舞台、メジャーリーグに「挑戦」してきた先人たちはつくづく偉大だと感じます。

日本の裏側から発信されるその活躍に、今WBCで活躍している、かつての野球少年はもちろん、多くの人々が胸を踊らしていたことでしょう。

 

「世界への挑戦」。球界の偉大な先人たちが積み重ねてきた歴史が、今の日本代表の精神の原点であり、一体感の拠り所になっているような気がしてなりません。

 

ナショナリズム研究の古典と言われる「想像の共同体」の中で、ベネディクト・アンダーソンは、

『国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民の不平等の中にたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ。国民は、常に水平的な深い同志愛としてこころに思い描かれるからである』

と書いています。

 

これを日本の野球の歴史に当てはめてみると、先人たちが作り上げてきた「世界への挑戦」は、ぼくら日本人にとって、「創造の共同体」を作り上げる1つの要因になり得ているのではないでしょうか。

 

このような一体感を生み出す原体験は、民族や言語などのアイデンティティの不足を補完します。

単一言語、単一民族の日本でなら、なおさらその一体感を強固なものとするでしょう。

 

イギリス、アメリカ、といった先進国のアイデンティティが揺れ動く中、野球で日本が一つになっているという心地よい感覚に触れながら、準決勝を観戦します。

信義を重んじること

学生時代に縁があり、とある小さな会社でお世話になっていたことがある。
サイトを作るにあたり、幾つかの本が必要ということとなり、新宿の書店の開店時間に合わせて9時に集合しようと先輩社員と約束をした。
 
殊にインターンであり、会社にとっての知識もない自分が会社のお金を使って何千年とする本を買うのであるから事前も下調べもしっかりとして検討するべき本をピックアップし、その日をむかえた。
西口にある書店に9時についても社員の姿は見られず9:30になって初めて東口と間違ったと言う次第。結局到着は9:45であった。
 
私が言いたいのは、俺様の時間を無駄にしやがってこのやろう、というわけではない。
別に私の45分が無駄になったって地球がひっくり返ったりすることはない。会社のいち員で動く以上時間という唯一の共通認識である規則を守らなければならないという功利主義的考えでもない。
私が言いたいのは自分自身の信義の問題である。
守らないことで小さな利害関係しか生まないからこそ、その人自身の自分に対する信義が問われるのである。
 
では、その上司が結局どうなったかといえば、身内に不幸があったということで連絡もなしに姿を見せなくなり、結局退社していったのである。
それも私と二人三脚で進めていたプロジェクトをそのままにして。日々の約束を有耶無耶にする人は大きな出来事がおこった時に信義を貫き通せないと思うようになった。
 
世の中は大小様々な約束で複雑に構成されている。小さな約束さえ守れない人は大きな約束も破りかねない。どんな小さな約束でも忠実に守り、信義を重んじなければ、信頼を損なう恐れがあると感じた出来事であった。

なくて自由かあって自由か。

いつものように学校に着き、同じバスに乗っていた友人と話をしながら病院実習へ向かった。

カバンひとつ持たず登校している友人に、私は、

「何も持ってきてないの?」と尋ねる。

「今までカバンに入れてきたものが必要になったことがないから」と、と友人はクールに返事をする。

9月から遠方での病院実習が始まり、慣れない電車・バス通学をしているのだが、常にカバンを持ち、その中に2冊のノートと本とノートパソコンを必ずと言っていいほど入れている。

理由は単純。持ち歩かないと不安だから。

「2時間電車とバスに乗って、この本は面白いから帰りのバスの中で読み終わったら、途中まで読んでいたあの本を読もう。何か気づいたときに書き留めるためにはメモ帳が必要だ。この本のあの一節は覚えておきたいからノートに書いておかないと。あの作業をご飯を食べた後の30分で進めたいからノートパソコンが必要だ。」という具合に。

もう安心。空いた時間で不安になることはない。

そして結果として電車では半分以上寝ているし、起きてる時間もこれらの「スキマ埋めグッズ」を使いこなせているかといえばそうでもない。

でも僕には「スキマ埋めグッズ」たちが必要なのだ。それは、不安から自分を解放し、自分の生活に安心と自由を得る為。

その為にこの無為で、自己満足にも似た「スキマ埋めグッズ」たちを明日も欠かさず持ち歩くだろう。