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unlikelyな日常

言語の多様性にこそ、面白さが隠れている。

以前、「言葉に関する仕事をしているから、他人の言葉遣いが気にならないの?」という質問を受けた。

その質問に対する答えは、もちろん「いいえ」であるが、それ以上に、その質問自体に気持ち悪さと憎悪に近い危機感を感じた。

 

その理由が長らくわからなかったのだが、少しずつ、おぼろげながらわかってきた気がするから、ここに書き留めておきたい。

 

個人的には、言葉に自由になれるとは思っていないし、他人に対してもそれを求めない。むしろ、言語の多様性にこそ、面白さが隠れていると思っているから。

 

先日読んだ、蓮實重彦さんの随想にハッとさせられる文章があった。

 

言うまでもなく、人類は、言語を所有しつくすことが出来ない。「言語」はあくまで、他者としてその全貌を我々の視界から遠ざけ、言語活動の根拠を人類に譲渡することなどありはしないからである。「言語」が、人類にとって絶対的な不自由であることをやめる瞬間など、来るはずもなかろう。我々に出来ることは、せいぜい言語による表象能力のもろもろの技術を社会の教育的な刺激に触れつつ、相対的に高めたり、低めたりすることに尽きている。その刺激が豊かな多様性を見失えば、社会の言語による表象能力も必然的に寂しいものになる。

 

 

随想

随想

 

 

ここでいう、社会の教育学的な刺激とは、矛盾ー異なるものの豊かで多様な共存ーを許容する風土のことだ。

 

自分とは使用する言語が異なる人を受け入れ、それを許す文化なくして、社会の言語による表象能力は衰退する。

 

他人と自分が違う環境で生きて、異なる表象能力を持つことに、興味と面白さを持ち続けたいと思っている。